近代日本の邦楽演奏会

日本の音楽文化は近代に大きく変化しました。

ここでは、邦楽の演奏会がどのような変化を遂げたのかについて、

雑誌や新聞等の当時の資料から掘り起こしていきます。

 

雑誌『三曲』にみる大正後期から昭和前半の三曲演奏会

邦楽の中でも、三曲(地歌・箏曲・尺八・胡弓の音楽)は、劇場ではなく料亭などの座敷で聴衆を前に演奏する習慣が江戸時代からありました。明治以降は、西洋文化の影響を受けて始まった洋楽の演奏会の中に組み込まれ、卒業式などの式典で演奏するなどの演奏機会がありました。大正時代には、三曲のみの演奏会が公会堂や音楽ホールで盛んに開かれるようになりました。当初は温習会と呼ばれる一門の発表会が主体でしたが、しだいに公開演奏会やリサイタル、合同の大演奏会などが開かれるようになりました。

1921(大正10)年に邦楽雑誌『三曲』が創刊され、戦中の44年まで続きましたが、その24年間に1万件を超える演奏会の記録が『三曲』に掲載されています。

 

 

雑誌『三曲』各号の巻末には、「演奏会予告」と「演奏会報告」が掲載されました。

 

 

このような演奏会プログラムも

多数載っていました。

 

 

巻末の彙報欄からは、第一線で活躍していた三曲家の詳しい動向を読み取ることができます。